『無神論』に寄せて。
こんばんは。
旗揚げを終えて、もう何日も経ちました。
何か書き残そうと思ったんですが、待っても待っても、本当に何も言葉が出てこない。
わいてきた時に、と思って数日。
結局、言葉は出てこない。
自分は今回に込めた想いを、板の上に置いてこれたんだろうか。
更に数日経って、ようやく少し出てきた。
なるべく野暮にならないように、書いてみようと思います。
振り返ってみれば、エゴにまみれた作品だったなぁ。
枯れてしまった自分と決別する為に始めた企み。
力を貸してくださったすべての方々は共犯者のようなものだ。
わかってもらえないものとして作り上げていったのに、関わってくれる人たちや、お客様の声を聞くにつれて、わかってもらいたかったんだなぁと、じわじわと実感していく日々でした。
とはいえ、髙木展とすら、わかりあえなかった。
キャストのみんなとも、少しずつわかりあいながら、思いっ切りわかりあえないまま、お互いを赦して見守るような日々でした。
それだって十二分に幸せな事だったと思います。
みんな、わからないまま僕の想いを自由に赦して置いてくれました。
新藤レイジとして、脚本に書かれるように役作りをしなくていいと。
自分のままで立ち、それを新藤レイジに落とし込んで完成させる事。
それが、僕が髙木から受けた唯一のディレクションでした。
正直怖かった。
自身を曝け出して、恥も外聞もなくぶつかる事は恐ろしかった。
本当は今でも怖い。
恥ずかしいと思っていた時期もあった。
対岸の人たちに笑い飛ばされた事もあった。
野次られ、揶揄され、否定されてきた。
こう在りたいと思う事が、思い続ける事が、こんなに難しくてしんどいのかって思ったりもした。
でも、どこまでいってもそうでしかなかった。
せめて何か伝われば、残せればという祈りは、自分にとっては確実に報われるものとなりました。
基準なんて人それぞれだとは思いますが、何も伝わらない内は、わかるとか、わからないとかって判断できないんじゃないかと思ってるんです。
その前提の中で、痛い程わかると言い切ってくださる方から、まるでわからなかったと言ってくださる方まで、その判断ができるレベルまでは何かを伝える事はできたのかなと、安堵したりしていました。
それがあるだけで、やって良かった。やれて良かった。心からそう思います。
話は変わりますが、様々な意見やアドバイスもいただきました。
成果と共に課題もたくさん与えていただけた事は大変有り難く、得難い機会に恵まれたと思っています。
生きる事を選ぶのは、難しいですね。
別に死ぬ事が簡単だとは思いません。
結局どちらも等しく重たい選択となって、無自覚であっても、そうでなくても、その選択を繰り返して皆生きている。
愛おしい事です。
思い残す事のない公演を目指してきました。
ですが、思い残す事がないと言えば嘘になります。
それで良かった。それが良かったと思ってます。
だから、だからこそ、また作ります。
式日はこれからも、表現活動を続けます。
もしこの結論が、ポジティブに映っているなら、良い事だと見ていただけるなら、皆さんが生活を続けていく事も同じように素晴らしい事だと思います。
少なくとも僕は、バカみたいにそう確信しています。
なんだか、何が言いたいのかさっぱりわからなくなってきてしまいました。
少なくともこの作品が、こちら側の人へ贈る”愛”になっていればいいなと思います。
そちら側の人たちにとっても、ひとつの”優しさ”になっていれば嬉しいです。
最後になりますが
『無神論』に力を貸してくれたキャストのみんな、スタッフの皆さん。
応援してくださった皆様、劇場に足を運んでくださった皆様。
今回の公演に関わってくださったすべての皆様。
本当に、本当にありがとうございました。
また、新しい表現の場でお会いできたら幸いです。
これからも、よろしくどうぞ。