うわごと。

散文ばかりをまさに散らかしている。

教養と知識の解釈の話。

教養と知識の違いってなんだろうなって、ふと思ったの。

 

たとえばね、これは極端な例だけども。

卵から生まれる生き物についてなら。

『卵が孵化して生き物が生まれる事を知ってる』これが教養。

『たらこから鱈が生まれる事を知ってる』これが知識。

 

知識っていうのは教養よりもっと詳細な事かなぁって。

名前とか、細分化されたそれぞれの多様なルールとかを知ってる事だと思う。

でも教養さえあれば、ある程度推測して理解する事ができる。

 

『たらこから鱈が生まれる』って知識しかない人は『たまごからヒヨコが生まれる』と言われても理解できない。

でも『卵が孵化して生き物が生まれる』って教養がある人は、鱈の話をされても鶏の話をされても、ある程度は話の根本の部分は理解できる。

でも、鱈がどんな生き物かとか鶏がどんな生き物かとかはわからない。知識がないから。

厳密に教養と知識を分離するのは難しいけど、この例えのように教養っていうのは知識の土台になる事が多いように思う。

 

別にこれが正しいとかそういう事が言いたいんじゃなくて、たとえば

知識と教養ってどう違うと思う?

って聞かれた時にこういった自分の解釈をパッと答えられる事が大切というか、考えて生きる価値はそこにあると思うんだ。

 

正しさばかり身につける必要なんてないだろうし、間違えたっていいと思うのね。

だけど解釈を持たない間は、心の中の考察を誰にも共有できないし、理解してもらえない。

同じ考え方はできないけど、君がそう考えるのはわかった。

そんなふうに言ってもらえるかどうかは、解釈の解説が着地するかどうかにかかってると思う。

 

何が言いたいかがふわふわしてきた。

教養のある人間になりなさいと言われる理由はそこにあると思うの。

新しい知識が詰まった会話についていける人間であれば、新しい知識を得る機会も増える。

 

なんていうか、根本的に話がすれ違う人たちって知識よりも教養の問題である事のほうが多いような気がしてね。

 

僕も決して、教養がめちゃくちゃあるほうではないと思うんだけども。

教養が知識の土台だとしたら、あるに越した事はないよね。

土台がなきゃ何も積み上げられないんだもの。

 

勉強ばっか頑張っちゃダメだよっていうかさ。

知識ばかりあっても仕方ないなって思うような人もいるし、逆に知識はそんなにないけど人として賢いなこの人って思える人もいる。

 

知識の土台をきちんと集めなきゃ、どれだけ膨大な知識を頭に詰め込んでもあんまり意味がない気がしてる。

決して知識がたくさんある人を否定するつもりはないんだけども。

 

ウンチクばっか語る面倒な人とかいない?

語彙力低いんだけど話が通じる人とかさ。

 

自分がどうなりたいかによるけど、つまりそういう事かもしれないな。

 

まぁその、あれだ。

あんま気にしないで明日も生きてください。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

それじゃ、またね。