パラノイアに潜む”過激”について。
過激な表現は、言わば刃みたいなものです。
それ自体でも十分危険ですが、あくまでお客様にその先端を向けるわけではなくて。
刃を引き合いに出す事で、その危険性を伝えられたら、と思うんです。
思わぬ形でその刃に傷付く方も出るかもしれません。
だけど、刃こぼれした刃では危険性は伝わりません。
だから例え事故的に傷つける可能性があっても、その刃を収める事はできなくなりました。
何より、刃の危険性はスパイスであって、本題ではないのです。
本題となるものについては、ここでは言葉にするのは野暮だろうし、それこそ公演として、表現として伝えなくては意味がないはずなので言葉にはしません。
ぜひ、本番に期待していただけたらと思います。
Domix Motion Comic Live 9 ”Paranoia”にて、今回取り扱う作品は、過激な表現を伴います。
それはやっぱり、確実にそうです。
人の死に様の醜悪さだったり、浴びせ掛ける言葉の汚さだったり、命の扱い方だったり。
主観的に稽古を見ると、素直に、腹が立つし嫌悪感もあって、軽蔑もするし、不快だなと、嫌悪や憎悪を抱きながら、本来はちょっとした無礼や思いやりの欠如みたいなもの、良心や罪悪感に背を向けて正当化しようとした悪意で、僕や、普通に生きている人もあるいはやってしまいかねない人道の踏み外し方を、少し見えやすくする為に誇張した結果として描かれているのでは、と感じています。
これは言い訳でもネタバレでもなくて。
演出家である前に、ひとりの観客として
完成未満とはいえ、キャストたちが表現している作品世界を観た、一足先の感想なのだと思います。
演出家として稽古の中で決定権や主導権を委ねていただいて、この過激な作品を一緒に表現する覚悟を決めてくれたキャストのみんなを守る責任があるから。
この作品を、公演という形で連れ出す事を許していただいた原作者 樹崎聖さんの覚悟を踏みにじらない為にも。
やはり、書いておかなくてはいけないと思いまして。
こんな文章を書き散らかしたわけであります。
ここに書き散らかした言葉たちが
客席に座った皆様の心に張られた一枚の薄い膜くらいにはなって
万が一、刃がお客様に向いた時に、それからお客様を守る盾になってくれたらと、そう願います。