うわごと。

散文ばかりをまさに散らかしている。

ワークショップあれこれ。

演技ワークショップ 「 #啓ws」を

12/14〜12/16の3日間実施しました。

 

実はこれで第6回目となる #啓ws なのですが。

顧客満足度が高いんです。

詳しくはTwitterにて #啓ws を検索してみて。

あの、感想とかみんなが自由につぶやいたりしてるので。

 

 

どんなワークショップなのって思う方もいると思うんだけど、とにかく様式的な事を全部すっ飛ばします。

腹式呼吸の正しいやり方とか発声の仕方とか、どこ行っても演技の初期ってそれを教えるんだけど、正直言ってあんまり意味がありません。

やりやすい方法で息を吸ってやりやすい方法で声を出してそれでいいんです。

 

普通に生きて生活している人たちは腹式呼吸も発声方法も気にせず息をして話してます。

だから正直言って聞こえれば、聞き取れれば、あとは何でも良いのだ。

 

役者は生きる事を再現するのが仕事なんだよ〜みたいな事を起点に、徹底的にお芝居のやり方を実戦形式で教えてます。

もちろん演劇は演劇なので、演劇の嘘も存在するわけで。

真実と嘘と、その両方と向き合って表現を成立させなきゃいけないわけだ。

じゃあどうやって?どこまで?

それを、お芝居のやり方を、教えてます。

 

呼吸のやり方でも、声の出し方でもないです。

お芝居のやり方を教えてます。

大事過ぎるので3回言いました。

 

それ以上は現場で。

 

はい、そんな #啓ws

次回は9/27〜9/28の2日間で実施します。

 

9/27(金)18:00〜22:00

9/28(土)13:00〜17:00

9/28(土)17:30〜21:30

 

今回は3枠、1枠4時間体制でお送りします。

受講料は1枠4000円です。

場所は新宿近辺。

詳細はお申し込みの声を頂いたらお渡ししておりますので、ご希望の日時を添えてご連絡ください。

既にTwitterではお知らせ済みでご予約もちらほらいただいてます。

毎回定員が埋まるのが早いのでお早めのお申し込みをお願いしてます。

 

ご連絡は以下のアドレスへ。

noimnotex.artandcreate@gmail.com

生きる事と手を繋ぐように。

質問箱に、短い文章では答えられなさそうなのが来ました。

 

改めて僕自身も考える機会になりました。

少しでも役に立つことを願って、ここに書き散らかします。

 

まず、質問はこちら。

 

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アドリブって難しいですよね。

まず、おさらいなんですけど。

即興でやる事を

エチュード とか

アドリブ とか

インプロ とか

呼びます。

これらの違いは言語です。

見ればわかるって?

そういう意味じゃなくて。

上からフランス語、ラテン語、英語なんです。

なんでこんな事を言い出したかって、結局意味は”即興”で、同じなんです。

でも、なんとなーく界隈で違う使われ方をしてるなぁって感じてます。

 

これはあくまで僕の主観的な印象なんですけど。

アドリブっていうと本番中のトラブルを繋ぐ芝居だったり、台本上毎回違う事をするように要求されてるシーンのお芝居とかって印象です。

 

エチュードは、設定だけを決めて始めから終わりまで台本なしのお芝居って印象。

 

インプロは即興芝居の練習って感じでして。

 

これは、ちょっと違う場所へ行くと印象自体は入れ替わる事も多々あるんですけど、どこへ行っても微妙にそれぞれ違う意味で使われる事が多い気がしてます。

 

話が逸れかけました。

少し戻して。

なんでもそうなんですけど、目的を明確にして、適した努力をする事が大切だと思います。訓練として取り組む場合、”即興”は様々な要素を育てるものですが、そのどれを身につけたいかを考えてみるのはどうでしょう?

”即興”で育つものは何か?

そのいくつかを、あくまで僕の解釈で説明していきます。

 

大まかに言うとひとつは、自然に会話する能力を育てるものだと認識しています。

その為、言われた事や起こった事を受けて、感じた事を口に出したり、行動を取る。

会話を終息させないように、始めはなるべく否定せず肯定した上で、それに続く自分の考えや想いを述べる事、行動を取る事が大切だと思います。

取り組む事で基礎的な会話能力の向上へ繋がります。

そもそも会話が続かない場合、根本的なコミュニケーション能力に不足があるかもしれません。

それ自体は悪い事ではありませんが、”即興”に取り組む前に、普段の人との会話から身につけられるものがたくさんあるので、そちらを優先した方が遥かに効率的です。

 

別の要素として

”役らしさ”を培うものだと認識しています。

どんなに自然に会話ができても、自分自身のままではお芝居はなかなか成立しません。

なので、こちらを重視する場合は

会話が続く事よりも、役がしないであろう言動を避け、仮にしてしまった場合自分の中できちんと違和感を感じられるかが重要だと思います。

例えば何かの台本の役としてこれを実践した場合

その仕上がりはそのまま、現状の役作りの進捗や質を測る指針になると思います。

 

上記のふたつを同時に、並行して行う事というのは往々にしてあります。

ですが、苦手なうちはひとつずつ意識して、まずは慣れていく事と、楽しんで、好きになれる事が上達の近道だと思います。

更に言えばこれを訓練ではなく演劇としてやる場合には、最低でももうひとつ重要な要素が加わる事になります。

 

それは”作家力”です。

当然なんですけど、進行する予定の台本が存在しないからといって、好き勝手にやれば面白くなるわけではありません。

ある程度の設定が前提としてある上で、これまでの文脈を読み取り、誰かの言動を伏線とするアイディアを持ち、先の展開を考えて、その方向へ進むようにお芝居をして物語を盛り上げる。

台本を読む様に、目の前でたった今展開した会話ややり取りを読解して汲み取り、次の台詞を作り上げる作家のような思考が必要になります。

結局それは”即興”の根本として要求される

『周りを見て、受け取り、反応していく』

要素の応用なのですが、これがない事には、見応えのない物語になります。

 

これらを成立させ、質を上げる為には、即興劇のプレイヤー全員がある程度自分の中で設定を持ち、一貫した言動を行う必要があります。

何にも予兆がなかった役が突然犯罪者になる展開は、誰しも無理やりだなと考えるからです。

理由を持って不可解な言動を行っていれば、それは伏線になっていきます。

必ずしも不可解な言動を行う必要はありませんが、”即興”において相手を信じて伏線になり得る言動を行う事には大いに価値があります。

 

少し話は変わりますが。

台本を奪われると驚くほど話せなくなる役者さんは多いです。

だけど、台本がなくても話せる役者さんは、そのままその人がその言葉を口に出す時のそれとして、自然に台本の台詞も話します。

本番中もちょっとしたトラブルに自然と台詞を変えて対応する事もできます。台本の外に突然出されても生きていられます。

それが重要なんだと思います。

役作りや”即興”に必要な能力がある程度揃っていれば、台本の外に出されても、生きていられるんです。

これは役者として大切な能力ではありますが、台本を使った稽古だけではなかなか育ちにくい能力でもあります。

だからこそ、今僕が書き散らかした事や、言ってしまえばそれ以上にたくさんの事を分析して把握し、明確に意識して稽古し、身に付ける事はとても大切な事です。

 

難しいと感じるのは、それだけ大切だから当然の事で、それを身につける為にこうして人に訪ねる向上心を僕は尊敬します。

随分偉そうに書き散らかしましたが、僕自身もまだまだです。

 

未熟な僕の回答が、お役に立てば良いのですが…!

 

これからも質問に答えられるよう、期待に応えられるように僕も頑張ります。

お互い頑張っていきましょうね!

 

質問ありがとうございました!

また良かったら質問してくださいな。

https://t.co/iooyCOWbCb

「ここから。」に寄せて。

human spice 第四回公演 「ここから。」

無事にすべてを終える事ができました。

 

ダブルチームの中、拓とふたりで

シングルキャストとして呼んでもらって。

 

主人公に継ぐ、キラキラして眩しくて

素敵な役を預けていただいて。

 

演出のヒロを始め、キャストの皆さんも

スタッフさんも本当に良い人たちばかりで

お陰様で最後までのびのびと稽古に取り組む事ができました。

 

あっちこっちにアドリブもあって

実は予定外の事態もいくつか起きていて

だけど、そのどれもを自然に、当たり前に

いつも誰かがカバーして、無事に終えられました。

 

向き合うには本当に重たくて難しい台本で

だから、みんなそれぞれに何かを思っていたみたいだし、

何かを抱えていたみたいだった。

 

役の心情として語られるべき言葉に

役者個人の私情が混ざってしまう事って、本来ならやっちゃいけないと思ってて。

だけど今回の台本に関しては、それすらもスパイスになってくれるかもしれない、なんて思っていました。

 

ヒロの書く本にはいつもそういう、人間らしさとか人間臭さが見事に描かれていて、今回もその台本を演じる事ができて幸せでした。

 

みんなで作り上げた公演を

たくさんの方が、足を運んで、観てくださって

いろんな感想をアンケートやSNSにも書いていただいて

有り難く思っています。

複雑な言葉もたくさんあって、すぐには言葉にできない事も多いかなと思いました。

帰り道とか、シャワーを浴びる頃になんとなく思う、考えるきっかけになっていたらなと。

それだけで十分だと思っていましたが、実際たくさんの感想を読む事ができて本当に嬉しかったです。

 

 

 

少し、自分の話をします。

多分きっと、これは作品とか、公演の余韻を味わう上で野暮な事かもしれません。

 

僕自身が木村コウジという役を預かって

最初はかなり悩みました。

 

純粋で真っ直ぐで、眩しかったから。

そんなにキラキラできるほど、僕は綺麗じゃないっていうか、汚れた部分もたくさんあるから。

 

実際その落差は自分の中で大きな亀裂になりました。

自然に語れない言葉がいくつもあって

体も顔も強張って、嘘になってしまう。

 

悩んで悩んで向き合って、ふっとある日気付いたんです。

Twitterをチェックしてくれてる人は覚えてるかな。

書き殴ってツイートをするのを辞めた、420字。

『やりたかった事とよく似ていて少し違う事をしながら生きているんだけど、やりたかった事はそっくりそのまま趣味になって、何が嫌になった時もそこへ逃げ込めば自分を持ち直す事ができたし、生きている事はいつだって実感できた。確かめる方法もなく、何かに向かって真っ直ぐ歩けるほど、僕は強くない。』

『大好きで夢中になれる事だけを真っ直ぐ見つめて歩けなくなったのは、歳を重ねたからでも、現実が見えるようになったからでも、ないんだと思う。そういうものはもっともらしい言い訳で、心を掘って掘って、怖いからだって気付いたんだ、認めたくないけどさ。多分そいつと向き合わないと、板に立てない。』

『だからまずは認めよう。僕はただ、失敗するのが怖くて、上手く行かなくて格好悪いって思うのがただ怖くて、それだけの理由で真っ直ぐ歩けなくなった。情けない程弱くて、ダサくて、見栄っ張りな肥大化したプライドだ。そんなものどうでもよくて、この気持ちに微塵も価値がないって、心で理解しないと。』

 

コウジと向き合う中で自分が酷く傷付く羽目になったのだって、コウジが眩しいせいじゃなくて、自分の不純さが浮き彫りになっていったからなんだと思う。

実際問題、あんなに真っ直ぐに好きを見つめていられる人ってなかなかいないと思う。

現実の問題も、将来の不安も、本当は無視できないし。

 

そう思っていたんだけど、なんだかんだ言って今でもやりたい事はずっと続けていて。

なんで辞めないのって言われても、好きだからとか、やりたいからとか、そんな理由しか出てこなかった。

これだと思った。

全部じゃなくても、これは使えるって。

心の中からそれが溢れ出して、彼のそれと共鳴してくれた。

それと同時に、自分の中の不確かさとか不安とか自信のなさもありありと見えた。

 

コウジは芝居も下手、家庭も厳しい。

もしかしたらこういう気持ち、彼の中にもあって、自分で抱えて向き合って、溶かして飲み込んで、それでも結局”歩きたい”って、やりたいって思えるだけの強さがあったのかもしれない。それが眩しかったのかもしれないって。

 

ずっと違う世界にいるというか、どこか別格のような心の強さを持ってるって感じてたコウジに、コンプレックスの可能性とか匂いを感じた時に、初めて身近に感じる事ができて、手を繋ぐ事ができるかもしれないって思った。

 

それが、作家や演出の意図した事とどれだけ違っているかとか、ズレているかとか、やっぱり最初は考えたけど、そうやって間違える事とか、失敗する事をまた怖がって逃げるのは嫌だって、それだけは絶対に嫌だって、その気持ちがあって。

だから、思い切って堂々とやって、結果演出としてヒロからダメ出しをもらう時間は少なくなった。

必ずしも良い事ばかりじゃない事はわかってる。

でも確実に、目に見える間違いや悪い部分は減ったって、いつもダメ出しを丁寧にしてくれるヒロが言及しない事を前向きに信じていた。

 

だから、勇気振り絞って、バカになる覚悟を決めて。

凸凹な道でも、転びそうでも、真っ直ぐ、直線で進もうって。

目もくれず進んでいくだけで、きっと彼みたいに無敵になれると思った。

 

起点を正せば自今へ。

 

この台本と出会って、僕自身の起点と向き合う事ができた。

きっとこれからも、真っ直ぐ歩いて行ける。

座組も、お客様も、本も、役も。今回の作品が与えてくれた出会い、すべてに、感謝しています。

 

アンケートやSNSで、コウジのそういう真っ直ぐさやキラキラした眩しさに何かしら言及していただけてるコメントを見る度に、ホッとしながら、それに支えてもらって次の本番、次の本番ってずっと歩いていられたんです。

 

コウジの事を書いてない感想が支えになってないとかそういう意味では、決してなくて。

いろんな思いを綴って、目に見える形で届けてくださって本当にありがとうございました。

 

 

いつまでも書き続けてもあれなので

そろそろこの辺で。

 

野暮だったらごめんなさい。

最後まで読んでくれてありがとう。

 

大好きなみんなの写真を添えて。

 

関わってくださったすべての皆様。

本当に、本当に、ありがとうございました。f:id:Noimnotex:20190703224449j:image
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Domix9 パラノイアに寄せて。

5/12の千秋楽、そして本日夜の荷降ろしを終えて、本当に無事に終わりました。

 

公演を作り上げていく上で、言葉にし難い様々な、本当に様々な苦労がありましたが

それもこれも過去となって、すべてはお客様の中だけのものとなりました。

 

一番最初にそれらを手放して役者に託し、役者の手を離れてお客様のもとへ。

公演って、それだけでも特別な機会だなと思います。

 

どんな思いも語ると野暮になりそうで、いつもこういう振り返りで余計な事を言うのが怖いですが、ふたつほど。

 

まず、素敵なチームでした。

互いへの尊敬に溢れ、役者やスタッフ、テクニカルチーム、演奏者さんに作曲者さんまで、別け隔てなく感謝し合って託し合っていて、その輪に演出家として加えてもらっていた事をありがたく感じています。

 

それから、当日パンフレット。

気付いてくださってる方もいたのですが、改めて。

「文章だって、読む方向を変えれば、また新しいものが見えてくると思うんです。(前説の一部)」

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皆さん、気付いていただけましたか?

 

 

さて、これ以降は野暮になりそうな話です。

書きたくて書くあれなので、興味のある方だけでも読んでいただければそれだけでいいです。

 

2つの違う作品を並べて上演するにあたって、狙っていたこと。

これはDomix X(クロス)という昨年末のイベントでDomix9の告知をした際にも「原点と進化として見せたい」とか言って、少しお話した事なのですが。

 

Vivo UNDEAD は、Domix1で上演した作品で、言わばDomix Liveの原点のような作品だと感じています。

宇宙を舞台にした物語でもあり、その空間の再現の複雑さを加味しても非常に動きをつけていくのが難しい作品でした。

初期のDomixは台本を持ったまま役者が演じていて、動画に、いわゆる朗読劇のようなスタイルのお芝居をそえて上演していました。

 

そこから台本を外して、朗読劇のスタイルをより磨き上げていく事で、ルーツとなった形をより良いものとしたひとつの到達点として作り上げていく狙いがありました。

その為、大きくて具体的な動きは少なめに、朗読劇の形をなるべく守っているつもりでした。

 

そしてZOMBIEMEN FLYは、そもそも音ありき、音楽や歌、そしてウジ子の音声ありきで描き上げられた原作で、言わばモーションコミックになる事で初めて完成するような想定で作られていました。

それを初めてLiveで上演するにあたって、朗読劇のスタイルに拘らず、ストレートプレイに近いレベルで大きく具体的な動きを作り込み、動画とどこまで相乗効果を生みながら、目の前で展開する形にするかが勝負どころでした。

理想としては、様々な形を経て1〜8まで続いたDomix Liveの上演スタイルの、ひとつの完成形を作れたらいいなと、そう思っていました。

その為にはどうしてもセンターを使った演技展開が必要だったんです。

しかしDomix Liveには動画があり、その前に役者が立つと動画が見えなかったのが嫌だったというご意見を過去にいただいた事は何度もありました。

8より前には真ん中に役者が踏み込まないよう極力対処されていたし、僕も3と6の際は同じようにいわゆる被りを気にしていたのですが、それでもそういうご意見は多く、今回スクリーンを高い位置に設置したのはその問題を解決する為でもありました。

 

そんなこんなで、原点と進化、その2つを同時に上演し、物語を楽しみながら、Domixのこれまでの軌跡をダイジェストで知っていただければ良いなと。

 

ちなみにどちらも樹崎さんの作品なのですが、ご自身でも仰っていたように、実は両作品共に描かれているものはおよそ同じようなテーマへと結びついていると感じていたのですが、描かれた時期はかなり違って、僕がただただ一個人の読者として、このテーマで描く上で作家、漫画家としての樹崎先生の表現力の進化を勝手に感じていました。

これは別にVivoがつまらないとかそういう話ではなくて、切り口の斬新さとか、具体的な設定や状況とか理解されにくい部分を説明台詞を使わず絵で見せているところとか漫画家としての技術的な部分(だと僕が勝手に思っているところ)の話なんです。

 

これらを並べてみたいという思いもありました。

 

もしかしたらこれは前知識として知って見れたほうが嬉しいお客様もいらっしゃったかもしれませんが、こんな狙いがあります。と言うのは野暮な気もして、結局クロスイベント以降心の中だけにあったものです。

 

結果的に、Vivoは動きが少なくて物足りなかったと書かかれたアンケートもいただいたりして、差別化はできていたのかなと安心したりしながら

朗読劇のスタイルを守りながらも、物足りないと感じない形に持って行く為、もっといろんなアイディアや仕掛けを考えられなかっただろうかと、反省したりもしました。

FLYはDomix Liveのひとつの完成形を見た。というご意見も思ったより多くあり、有り難いと思うばかりでした。

とはいえ動画との融合具合をもっと進化させられなかったのか、黙々と静かに考え続けるあまり打ち上げでお酒を飲み損ねたりもしました。

 

他にも、過激さについて注意を促していたけれど、全然過激じゃないと思う。という意見から、過激と聞いて覚悟してきたけど本当に心がしんどくなった。という意見まで

過激さについても様々なご感想をいただきました。

もちろんすべてが良いというか、褒めるような感想というわけではありませんでした。

いろんな捉え方があって、そのひとつひとつについて、改めて、逆に考える機会をいただきました。

 

そのアンケートに関わらず、様々な良い意見もアドバイスのような意見も、批判もいただき、Domix Liveにたくさん期待していただけている事、更なる可能性のヒントとなる意見をいただけたことに感謝しています。

 

もしもまた漫画元気発動計画さんからご依頼をいただき、Domix Liveを作る一員になる機会があれば、誠実にそれらの意見と向き合って、また何かを作っていこうと思いました。

 

お話できることはきっとまだまだたくさんありますが、書き始めたらキリがないのでこのへんで。

 

改めまして、

応援してくださった皆様

ご来場いただいた皆様

音響、照明のテクニカルチームの皆さん

作曲、演奏を担当してくださったおふたり。

企画、制作スタッフの皆さん

役者のみんな。

つまり、関わってくださったすべての皆様へ。

本当に、ありがとうございました。

嫌いも悪くないかもって話。

きっかけは何でもない食事の話だった。

食べた事がないものの話をしていた席で

「あの美味しさを知らないなんて勿体無い」

という言葉が出てきた。

そう言った友人は別に悪気もなければ深い意味もなく言ったんだろうと思うし、その発言自体に何かこう、とやかく言うつもりはない。

 

そこからもくもくと頭の中で考え事が始まった。

 

好きなもの見落としたら勿体無いって言うのに、嫌いなものだとあんまり誰も言わないよね。

 

なんていうか、僕は好きなものもたくさんあるけど、大嫌いも積み重ねて生きてきたし、そうやって嫌いなものをたくさん知った事は財産だと思ってる。

漠然と前向きでいたいとは思っているけど、後ろ向きな気持ちから遠ざかりたいとは思わなくて。

こう、責めるつもりはないんだけど、それでも

好きなものしか見てない人って、盲信的に偏ってて怖いなって時々思う。

だから好きだけじゃなくて、嫌いも、好きと同じくらい価値のある感情だと思っている。

 

 

毒と解毒剤はワンセットで扱わないと危険だというか、そういう感覚で好きと嫌いを捉えている。

案外好きと嫌いだったら好きのほうが毒なんじゃないかと思う。

それ自体は悪い事じゃないと思うけど、何かを好きって状態異常が掛かってる事は自覚してるほうが良いと思うし、解毒剤も用意しておかないと、盲信してしまった時に自分の愚かさを止められないと思う。

 

誤解されたくないからはっきり言っておくけど、嫌いも嫌いで毒だとは思う。

だから、意図的に何かを嫌う必要もないだろうけど、嫌いだと感じた時は、それをそう感じたままおいておく事も大切だとは思うんだ。

 

どっちも毒だし解毒もできるから尚更。

好きも嫌いも悪い事じゃないけど、毒を以って毒を制する。みたいな事だ、多分。

 

好きなものたくさん集めて、好きだけでいっぱいにして、好きが飽和したら当たり前になって、そしたらどの好きも普通になって、刺激がなくなってしまう。

そんな気がするから、嫌いもあって、それがスパイスになるおかげで好きが際立ったり引き立ったりするんだと思う。

 

苦労なんて買ってまでする必要ないと思ってるし、わざわざ嫌いに出会いに行って不快になる必要もないだろうし、

ポジティブな精神論は心の助けになるけど、そればっかり大切にして嫌いを無意識に避けて避けて、遠ざけてしまうのはやっぱり、なんていうか、良くないと思った。偏ってしまいそうだから。

 

無意識に、

好きは良い事。

嫌いは悪い事。

って、決め付けているような、その前提がふと恐ろしくなった。

 

自分も気を付けようと思った。

 

何かを好きになれるってすごい事だ。

嫌いになれるのも、すごい事だ、きっと。

 

嫌いになってしまった自分を責めないようにしていたいし、理想を言うと、好きになれない事に、誰も傷付かないでほしい。

 

好きも嫌いも、誰かに押し付けなければ、そのまま持っていていい感情なんだろうなって、なんか、その話をしながら改めて噛み締めたんだ。

 

そんだけ。

まじで。

 

だからあれだ、あの

あんま気にしないで明日も生きてください。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

それじゃ、またね。

パラノイアに潜む”過激”について。

 

過激な表現は、言わば刃みたいなものです。

 

それ自体でも十分危険ですが、あくまでお客様にその先端を向けるわけではなくて。

刃を引き合いに出す事で、その危険性を伝えられたら、と思うんです。

思わぬ形でその刃に傷付く方も出るかもしれません。

 

だけど、刃こぼれした刃では危険性は伝わりません。

だから例え事故的に傷つける可能性があっても、その刃を収める事はできなくなりました。

 

何より、刃の危険性はスパイスであって、本題ではないのです。

本題となるものについては、ここでは言葉にするのは野暮だろうし、それこそ公演として、表現として伝えなくては意味がないはずなので言葉にはしません。

ぜひ、本番に期待していただけたらと思います。

 

Domix Motion Comic Live 9 ”Paranoia”にて、今回取り扱う作品は、過激な表現を伴います。

 

それはやっぱり、確実にそうです。

 

人の死に様の醜悪さだったり、浴びせ掛ける言葉の汚さだったり、命の扱い方だったり。

主観的に稽古を見ると、素直に、腹が立つし嫌悪感もあって、軽蔑もするし、不快だなと、嫌悪や憎悪を抱きながら、本来はちょっとした無礼や思いやりの欠如みたいなもの、良心や罪悪感に背を向けて正当化しようとした悪意で、僕や、普通に生きている人もあるいはやってしまいかねない人道の踏み外し方を、少し見えやすくする為に誇張した結果として描かれているのでは、と感じています。

 

 

これは言い訳でもネタバレでもなくて。

演出家である前に、ひとりの観客として

完成未満とはいえ、キャストたちが表現している作品世界を観た、一足先の感想なのだと思います。

 

 

演出家として稽古の中で決定権や主導権を委ねていただいて、この過激な作品を一緒に表現する覚悟を決めてくれたキャストのみんなを守る責任があるから。

この作品を、公演という形で連れ出す事を許していただいた原作者 樹崎聖さんの覚悟を踏みにじらない為にも。

 

やはり、書いておかなくてはいけないと思いまして。

 

こんな文章を書き散らかしたわけであります。

 

ここに書き散らかした言葉たちが

客席に座った皆様の心に張られた一枚の薄い膜くらいにはなって

万が一、刃がお客様に向いた時に、それからお客様を守る盾になってくれたらと、そう願います。

悩んだら始まってると思う。

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1/25にもらった質問なんですけど、なかなか言葉にできなくて今更になります。ごめんなさい。

 

役作りって何なの?って意味ではあくまで僕は、他人を知る作業だと思っています。

あ、前提としてこれは精神の話です。

減量とか体幹を鍛えるとか、肉体作りについては普通にプロのトレーナーさんに聞いてください。僕より絶対わかりやすいです。

 

で、

 

人の事をわかった振りをするのは怖いけど、それでも役として話す時、役者としては確信を持って断言できないとブレる。

役が確信を持てずに迷ったりしてる事はもちろんあります。多々あります。

迷っている状態である。と確信を持って断言できないと、迷っている状態は表現できない。みたいな話です。

 

ちょっと話が逸れた。

つまり、

 

役とかキャラとかではなくて、純粋にひとりの人間として捉えられるか、扱えるかが重要だと思っています。

 

なのに何故今、役と呼んでるかと言うと具体的な名前がないからです。

なんだこの当たり前の事を言い訳してる感じ。

 

まぁいいや、で、

 

初めましての人と仲良くなる時と、台本の役と仲良くなる時で考える事は大体同じだなと感じてます。

直接会話しながら人柄を知るのか、台本の中からそれを知るのか、そういう違いがあるだけです。

普段人と親しくなる時も、お見合いみたいな質問合戦するよりも、ちょっとした発言とか、リアクションの具合とか、返ってくる気持ち、フォローの入れ方とか、本当になんて事ない言葉の端々からはっきりわかる思い遣りの使い方まで、言動から感じたり考えたり時には探ったり。

みんながそうかはわかんないですけど、なんでもない会話をしてるうちに仲良くなったのが今の友達で、悩みとか打ち明けたり相談し合うのは仲良くなってから、みたいな人は多いんじゃないかなと思うんです。

本当はそうやって役とも仲良くなれれば楽なんですけど、物理的に会話はできないので、台本の中にある役の言葉から仲良くなる為に人柄の事を考えていきます。

考えるのはほとんど感情ではなくて、心そのもの。そしてそれを形成する今日までの日々について。

 

その辺りは台本にはほとんど書かれてない事が多いけど、でも現実もそんなもんで。

今や友達と呼べるようになった人たちの人生とか過去とかって、知ってるようで知らないし、だけど友達の癖とかわかる気がするし真似もできるんじゃないかなと思うんです。

声とか見た目はそこまで似てなくても、特徴はそっくりとかそういう真似なら。

僕もたまにやります。似てるって言われる事もあります。

 

ある種それは役作りで、だから結局誠実に人として扱う事ができれば、どんな人なんだろうとかどうしてそう思うんだろうとかそういう、人を理解しようとする上で悩む事はあっても、役作りのやり方に悩む事はないんじゃないかなと思います。

 

ざっくり一言で言うと

役について考えた時間は、役に贈った愛情の量だと信じている。

 

だから、

役に贈った愛情の量が役作りの質を左右する。

 

と思ってます。

 

集めた情報とか感覚とかを頼りにその人になる。

なりきるというよりは、自分をその人だと信じ込んで振る舞うような感覚なんですけど、そこらへんはなりきるでも良いのかなと思ってます。

 

ただまぁ、子供がごっこ遊びやおままごとをする時、それぞれの配役になってるとその瞬間信じ切れてるような気がして、究極はそこなんじゃないかなって思ってます。

それをなりきると呼ぶならなりきるでも良いのかなとか。

 

 

ここからはちょっと余談なんだけど。

他人を尊重する思い遣りは役作りにおいても大切だと思ってるんだ。

 

『"私だったらこんな気持ちになりません"や"僕はこんなことしません"なんて主張は役作りの上では凡そなんの価値もない。だってそこに描かれている人は"私"や"僕"じゃない。こんな露骨に自分の主張をする者は少ないが"この台詞がどうしても腑に落ちない"なんてパターンはよく見る。本質は同じ。

台本の台詞ひとつひとつ、きちんと納得した上で、自分自身にもなんの疑問もなく素直に話し、役と自分のすれ違いをゼロに。なんてのは役者のエゴだ。納得できない気持ちや動機を理解する事に浪費する時間があるなら、その人と自分の間には"他人"という圧倒的壁がある事を理解し、尊重したほうがいい。』

 

これは過去の僕のツイートの引用なんだけど、僕は、文脈で読んでて自分にこの言動が腑に落ちるかどうかなんてそんなに重要じゃないと思ってて。

その人はそうしたい、そう思うんだなと適切に理解や共感できる事のほうが重要だと思ってる。

 

自分的に納得できなくて、という言葉は相手の気持ちを捨て置いている気がしてる。

自分を捨て置く必要もないけどね。

 

 

って事で役作りに関して

あくまで僕が

考えたりやったりしてる事のいくつかです。

隠してるわけじゃなくて、結構感覚とかでやってる部分も多くて説明しにくいんですこれ。

 

長くなり過ぎたからこの辺で。

 

なんか使えそうな所があったら持って行ってください。

なかったらごめんなさい。

いろんなスタイルがあるんで、合う合わないはあるし、ほんと、ごめんなさいとしか言えないです。

 

所詮持論に過ぎないんで、

あれだ、あの、あれ。

 

あんま気にしないで明日も生きてください。

 

ちなみに質問箱はこちら

https://t.co/iooyCOWbCb

 

最後まで読んでくれてありがとう。

それじゃ、またね。